冬闘から春闘へ
春になりましたね。春闘と書いて花粉症と読む。戦っています。否、負けています。
1日コップ一杯以上垂れ込んでくる鼻汁、鼻孔ぴくぴくしちゃうむずむず感、起床前からの咽頭イガイガ感、寝るの邪魔してくる鼻閉、逃れられない鼻すすりからの咽頭痛、もちろんくしゃみ、もちろん目のかゆみ、なにより微熱と倦怠感。打ちのめされています。外気吸わなきゃいいのか?酸素ボンベくれ。
ただ、気づいているだろうか。我々は一つ闘いを終えようとしている。それが、
「ダウンジャケット肩幅問題」。
はい、ピンときた人、敏感さん。
電車座った時、肩幅そんなに広くない人でも隣と腕ぶつかっちゃうよねー。隣の人ダウンだったとき、自分の腕を前に出すか、後ろに引っ込めるか…。動く度、振動が伝わってくるのよー。チリツモの苦痛。極限まで私の肩幅狭めても、無意味。
私はそういう理由もあってダウンを着ないのですが、そもそも日本ってダウン要るほど寒くな…いやでもヒートテック着れない人には必要なのか。
冬闘から春闘へ。闘いは続く。
ダメなものはダメ、だけど
つみの懺悔をされたことがあって。
そんなことをしてしまうくらいにつらかったんだねって、言ったんです。
その時に甘すぎない?って
言われたんです
そうなのかな
ダメなこととすでに自覚して、自ら十字架背負って苦しんでる人に、
「それはダメでしょ」って念押しで正論投げつけることに何の意味がありますか。
そういう人に必要なのは、許し、ではないの?
どうして相手は懺悔の相手に自分を選んだのか、その意味を考えてみてほしい。
「つみを犯したんだから、一生苦しめ」、と言っていいのは、被害者だけ。
部外者がダメ押しで断罪するなら、それはその人の行く末を、更生を、援助し、見届ける覚悟がある人しか、言ってはいけないと思うの。
人は弱いから、ぜったいに間違う。いけないことと分かっていても、そうしてしまうことがある。
「そうせざるを得なかった。」それがすべてだと思う。
そして、また、間違うかもしれない。
でも、間違えないように、弱さを認めて支えあっていくことはできると思う。
それが信じることのひとつなのかもしれない。
優しいことは良いこと?
優しいことは良いこと。
なのに、恋人同士だと、相手に優しくしすぎるのは良くないんだって。
いみわからん。ぜんぜんわからん。
相手が忙しそうだから、疲れてるかもしれないから、何かやってあげたいって思うのは普通のことじゃないの。私ができることなら、なんでもやるよって、大切な人のためにそう思う気持ちにやりすぎも行き過ぎもなにもあるの?
わからんわからん。まったくわからん。
自分と相手の境界線?尽くしすぎ?
それの何がいけないのか、誰か、わかるように説明してくれませんか。
その点。
医者の仕事の気に入ってるところは、
医者ってどこまで優しくしても、お節介しても、
ダメってことない、ってところ。
そこばかりは向いてるなぁって思います。
まあ、やさしさ、悪用されやすいのは事実だけどね。(さんざん経験済み)
例えわたしのやさしさを利用されても、優しい人間であることを、わたしはやめられない。
優しくしすぎない人間になろう、なんてばかばかしい。
誰よりも優しい人間で、なにがわるいのさ。
心の体力
精神的に疲れる、という表現をすると、ちょっと病的な印象になるけど、
デスクワーカーの方でいう肩こりとか、肉体労働を伴う方の腰痛とか、そういうんじゃない、「疲れ」ってあるじゃない。
気疲れ、みたいな。
そういうものを私は心の体力に例えるんですけど。
数年前まで
私は体力って身体的なもののことだと思っていて、
私は疲れない、と思い込んでいたんですね。
でもある時、
体力には身体の体力と心の体力があって、私には心の体力不足になるときがあるって気づいたんです。
それ以降、心の体力と、体の体力は別物だと認識してたんだけど、
最近は、ちがうのかなと思うこともあって。
自分が心の体力がないことに気づいてから穏やかな日々を心掛けてたら、いつの間にか、体の体力まで下がってしまったみたいな気がするの。
どうおもいますか。
え?只の加齢ですか?